JANAMEFメルマガ(No.47)

私のカナダトロント大学留学:基礎研究から臨床への経験

福永 直人
兵庫県立尼崎総合医療センター
心臓血管外科医長


はじめまして。兵庫県立尼崎総合医療センター心臓血管外科に勤務しています福永直人です。私は、日米医学医療交流財団からの御支援を頂き2017年よりカナダ国トロント大学で研究と臨床留学を経験することが出来ました。改めて、この場をお借りして貴財団には心より御礼申し上げます。
本稿では留学中の経験を記載します。皆様の今後の参考ないしは留学の動機付けとなれば幸いです。経験ですのでお役に立たない記載が続くかもしれませんがその点はご容赦下さい。

 

1.留学までの準備

学生時分より心臓血管外科にすすみ、カナダへの臨床留学することを夢見てきました。多くの留学生はアメリカを目指している方が多いように思います。私がカナダを希望していた唯一の理由は治安の良さです。医療の面ではアメリカが世界を代表する大国であることに違いはないでしょう。一方でご存じの通り銃社会、日本国内にさえアメリカでの悲惨な事件は伝わってきます。隣国であるカナダは銃社会ではなく、安全なイメージがありました。また、英語圏であるため、自分の中では文句なしにカナダを選択し留学、特に臨床留学を目指していました。

 

2.カナダトロント大学での研究留学(リサーチフェローとして)

私がトロント大学心臓血管外科への臨床留学に焦点をあてた理由は、心臓血管外科領域の巨匠が依然手術をしていたことと、様々な臨床・研究の情報発信の地であったことでした。トロント大学で臨床留学を行うにはオンタリオ州(トロントがある州)で医療行為を行うための条件を満たす必要がありました。採用施設からの採用通知と非英語圏の外国人には英語の試験が課せられていました。英語の試験の一つがTOEFLでした。私は留学前に条件合格を目指しましたが非常に難しい試験であり、合格までに約1年と多額の受験料を要しました。特にspeaking testでの高得点取得(8割取得が必須)には難渋しました。対策としてオンライン英会話を開始しました。医療行為を行うための英語の試験に合格した頃に所属していた京都大学心臓血管外科の湊谷教授に相談し留学が決定しました。非常に幸運だったことは湊谷教授とトロント大学心臓血管外科の当時のチーフ(Dr Rao)が友人であり、リサーチフェローを探していたことでした。臨床留学ではなく研究留学となりましたが、研究後に臨床へ移行することを事前に約束したうえで研究留学を選択しました。
トロント大学心臓血管外科からの採用通知を取得後にビザの申請を行い(仲介会社に依頼)単身カナダへと渡りました。トロント到着後は生活の準備と研究室での様々な手続きを行いました。当然全て英語であり、英語の試験に合格しているとはいえ日常英語には全く歯が立ちませんでした。幸いにも現地の人々は私のつたない英語を懸命に理解しようとしてくれました。非常にありがたく、カナダ人の優しさを実感しました。
研究室では、前任者から研究の引継ぎや新規研究の申請を一から行いました。日本での基礎研究歴がない私には英語で基礎研究の基礎を一から学ばなければなりませんでした。困難を極めましたが、他研究室の日本人や研究室のマネージャーの親身なサポートがありゆっくりとではありましたが研究らしきことを開始出来ました。また、所属する研究室には他国からの研究留学生やトロント大学の学生等が所属しており、彼らの研究助手に参加することで実験手法についていろいろと学ぶ機会があり、大変助かりました。研究室からの成果は学会発表や何編かの論文として出版されており、彼らと研究成果が出せたことを非常に誇りに思っています。研究生活は日本での慌ただしい臨床生活とは全く異なり、家族と時間を多く過ごすことが出来ました。特に、留学当初は初めての土地や文化圏での生活を開始しなければいけない不安が強く、その間に家族との時間を確保出来たことは非常に助かりました。子供は近所のnurseryに通わせましたが、嫌がらずに通ってくれました。子供同士の付き合いが始まると、親もそこへ参加する必要があり、週末には現地の家族と過ごす時間を幾度となく持つことが出来ました。これは一重に子供のおかげだと思い感謝しています。
当初2年の研究生活の予定でしたが、臨床ではクリニカルフェローが不足しているとのことで半年早めて私の臨床留学が始まることに急遽決まりました。突然のことであったためにビザを含めたクリニカルフェローの手続きが間に合わず、約1か月遅れでの臨床開始となりました。この手続きが非常に煩雑で、多くの書類を提出しなければならず、多くの方の助けがあり無事に手続きが完了しました。
クリニカルフェローは2年先まで一応は決まっていたのですが(仮のようなものです)、他国からのクリニカルフェロー志望者はスタッフポジションが獲れれば容易にクリニカルフェローをキャンセルします。そのために今回のようなことが起こりました。また、非常に強いコネクションがあればクリニカルフェローが割り込みしてくることもあるようでした。いずれにせよ、このようなやりとりは初めてであり、勤勉な日本人(?)には全く慣れない経験でした。

 

3.トロント大学での臨床開始(クリニカルフェローとして)

待ちに待ったトロント大学心臓血管外科でのクリニカルフェローが始まりました。日本同様に患者と接するため病院や手術室でのシステムに慣れる必要がありましたが、英語環境でのそれは非常に骨が折れました。リサーチフェローを経験した後とはいえ、英語を話す機会は各段に増えました。苦労した分、慣れるスピードも速かったように思います。クリニカルフェローの目的は手術手技を学ぶことでしたから、手術室でのシステムに慣れることにまずは専念しました。1年間に心移植を含めた約1500例の開心術を7人のスタッフでこなしていました。各スタッフがそれぞれクリニカルフェローとペアで手術に入ります。手術の手順や専門にしている疾患が異なるため、スタッフそれぞれに対応出来るようにメモを取りそれを覚えて手術に望みました。自分は執刀経験が喉から手が出るほど欲しかったのですが、助手を務めるだけで精一杯でした。世界的権威であるDr. Davidの助手を開始した時は助手が務まらず、さすがに心が折れました。しかし、同期のフェローにアドバイスをもらったり、試行錯誤してこの難題を乗り越えることが出来ました。最終的にはDr. Davidからは手術参加を求められるようになり、非常に光栄でした。手術室でのトレーニングに加えてICU管理を週1回心臓血管外科フェローが麻酔科上級医と麻酔科フェローで担当しました。これが非常に激務で24時間当直の際には一睡も出来ないことがよくありました。トロント大学心臓血管外科ではクリニカルフェローを1年6カ月行いました。コロナ流行の真っただ中であったために数週間クリニカルフェローが中断することを経験しました。その折にはトロント全体がロックダウンするという日本では起こりえない状況を経験しました。執刀経験自体は僅かでしたが、執刀以上に貴重な経験を蓄積することが出来ました。私が日本で執刀を行う上で今でもこれら経験は非常に役に立っています。トロント大学でのクリニカルフェロー終了後はトロント大学関連病院のセントマイケル病院でのクリニカルフェローへと運よく移行することが出来ました。同施設は年間約1200例の開心術を行っていました。約1年間でしたがトロント大学とは違った非常に濃厚な心臓血管外科だけの臨床に時間を費やすことが出来ました。カテーテル大動脈弁留置術を含めた執刀経験の蓄積に加え、病棟で患者を診ることの重要性をDr. Petersonによって改めて叩き込まれました。帰国後の私の臨床スタイルや独立して執刀を開始した時にセントマイケル病院での経験が非常に有益であったと回想します。
両施設でのクリニカルフェロー期間中は呼び出しがあり日本の様に忙しくなりました。しかし、週末は当直医が病棟や緊急手術をすべてカバーしていたため、呼び出しはほぼなくきちんと休みをとることが出来ました。加えて、年4週間の休暇が認められており、この休暇を消化することは当然の権利であり皆が取得し休暇を楽しんでいました。日本では経験したことがないシステムでしたので当初困惑はしましたが、取得する必要があると認識し家族と有意義に過ごしました。

 

4.帰国後のキャリア

2021年7月より湊谷教授の御高配のもと、兵庫県立尼崎総合医療センターへ異動となりました。赴任当時より田村部長が心臓血管外科を主宰されていました。執刀経験がまだまだ少なく若い私に積極的に執刀機会を与えて下さいました。その貴重な機会とトロントでの経験が融合し、帰国後は同施設で執刀医として心臓血管外科診療を開始することが出来ました。当然、執刀することは患者に対する全ての責任を負う必要があり、それ相当のストレスはありますが何とか耐えられています。引き続き心臓血管外科医として研鑽を積むとともに、患者に対して満足のいく外科治療を提供したいと思います。
リサーチフェロー時分のような、腰を据えて物事を考える作業が疎かになっている点が、自分の惰性であると痛感しています。施設として学術的な情報発信にも注力出来るようにしたいと考えています。

 

5.留学して思うこと

心臓血管外科医として執刀経験を積みたい一心から始まった、私のトロント留学は満足いく内容でした。生活を始めると家族と異文化での生活は日本では経験出来ない貴重な経験を我々に与えてくれました。異国の日本人という立場であり守られていないことをひしひしと実感していましたが、何とかなるものだと今改めて思います。それは我々がまだ若かったための溢れんばかりのエネルギーが勝っていたためか、はたまた、異国で生き抜こうとするエネルギーが漲っていたためか定かではありません。いずれにせよ、日本を出て異国、異文化で生活した経験は何ものにも代えがたい貴重なものとなりました。長い医師生活のうち、わずか数年でも異文化で生活する時間は非常に有意義であったと思います。
私は心臓血管外科医として留学しましたが、診療科など関係ありません。ぜひ皆様方も異文化での生活を経験するべく留学をキャリアの一つとして考えられてはいかがでしょうか。

 


執筆:福永 直人
兵庫県立尼崎総合医療センター
心臓血管外科医長