JANAMEFメルマガ(No.41)

JANAMEFから始まった私の国際化人生

小川 徹也
1998年度 第11回助成A項医師(JANAMEFフェロー)
愛知医科大学医学部 耳鼻咽喉科・頭頸部外科学 教授(特任)
日本頭頸部外科学会 国際委員長兼担当理事
AHNS:American Head and Neck Society(米国頭頸部外科学会)正会員
同 International Advisory Service アジア代表


はじめに

JANAMEFフェローとして1999年に渡米し25年が過ぎた。米国に憧れ、日本を飛び出した私を応援してくれたのはJANAMEFであった。出会いは人生を作るという。暫くの間、私の話を聞いて頂きたい。

 
医学部時代における尾島昭次教授との出会い

1986年に岐阜大学に入学した。専門2年次に病理学尾島昭次教授の臓器組織実習があった。実習終了後にレポート提出が命ぜられた。バイトとラグビーに明け暮れていた私には深く考察できるものなど無く、臓器提供患者さんへの感謝を記載し、提出した。返答されたレポートにはこう書かれていた。
「学問平凡、感想貴重。」
真正面からお答え頂いた尾島先生に感動した。しかし当時の私は日本医学教育の祖、JANAMEFの祖である尾島先生の偉大さには気付いていなかった。

 
愛知県がんセンターにおける松浦秀博先生との出会い

1992年に医師となり、頭頸部外科医を夢見て1995年愛知県がんセンター頭頸部外科レジデントとなった。部長は外科医松浦秀博先生であった。先生は1960年代後半に米国Roswell Park Memorial病院で頭頸部甲状腺外科医として研鑽を積まれていた。先生はいつも私にこう言われた。
「絶対米国へ行きなさい。手術だけでなく基礎医学も大切にして準備を。」
知らぬ間に米国への憧れが刷り込まれ、高まっていった。

 
世界耳鼻咽喉科・頭頸部外科学会におけるThomas E. Carey先生との出会い

私は臨床、研究に没頭し、文字通り病院にレジデンスしていた。抗がん薬感受性と癌関連遺伝子の関係が成果として纏まった。レジデント2年次に、1997年シドニーで行われる世界耳鼻咽喉科・頭頸部外科学会での発表を勧められた。どうせなら口演だろう、どのみち採択されないだろうと軽い気持ちで口演応募した。結果は口演採択であった。しかしこれが人生を動かすこととなる。
1997年3月に発表をした。若干29歳であった。口演後、髭のいかにも重鎮と言った感じの白人が声を掛けてきた。
「良い発表だった。」
生涯の師となるThomas E. Carey先生との出会いだった。ミシガン大学医学部に居るという。私はとっさにこう言った。
「アメリカに行きたいです!」
「お前は愛知県がんセンターか?Dr高橋っていうのが居る。宜しく伝えてほしい。」
名刺を一枚渡された。米国へのチャンスを掴んだ瞬間であった。

 
愛知県がんセンター研究所における高橋利忠先生との出会い

Dr高橋とは、当時愛知県がんセンター研究所副所長をされていた高橋利忠先生であった。高橋先生もやはり1960年代後半からNew YorkのMSKCC(Memorial Sloan Kettering Cancer Center)で腫瘍免疫研究室のスタッフをされ、多くの米国人研究者を指導されていた。Carey先生は高橋先生の部下であった。
私は帰国後、研究所副所長室に向かい、Carey先生の名刺を持参し挨拶をした。高橋先生は大変厳しい先生である。最初の言葉はこうであった。
「君は誰かね?何か用かね?」
経緯をお話し、ご理解を頂いた。そして最後に高橋先生はこう言われた。
「君が良い仕事を続けていたら、米国推薦も考えよう。」
その言葉を胸に研究を継続した。学位の目処も立ってきた。ミシガン大学がNIHグラントを獲得したとの連絡が入った。長女も誕生し、留学が現実的となってきた。

 
JANAMEFとの出会い、尾島教授との再会(電話のみ、今でも最大の悔い)

様々な局面を経て1999年4月からの、米国ミシガン大学への留学が決まった。しかし日本のポジション保証は無い、自分で行きなさい、との事であった。何らかのグラントを、と思っていた時、当時の耳鼻咽喉科教授がこう言われた。
「日米医学医療交流財団がある。尾島先生が関係している。連絡をしてみたらどうか。」
私は履歴書業績などをお送りした上で、尾島先生へお電話した。先生は言われた。
「小川君は若いけど、しっかり仕事をしていて業績もあるね。是非とも自分は推薦をしたい。しかし私は内部役員をしている。だから書けない。申し訳ない。」
私は尾島先生の実直な御言葉に感動した。と同時にJANAMEFとはなんて透明な組織なのだと驚き、感激した。首尾よく選考が進み合格を頂いた。妻と1歳2ヶ月の長女を連れて渡米することとなった。
尾島先生とはこれが最後の会話となってしまった。尾島先生に直接御礼が出来たのならと、今でも思っている。

 
ミシガン大学におけるCarey先生と再会、Carol R. Bradford先生との出会い

1999年4月からミシガン大学耳鼻咽喉科・頭頸部外科およびミシガン大学がんセンターで仕事開始となった。Carey先生に妻、長女を連れて挨拶をした。
Carey先生は共同研究者の頭頸部外科医Bradford先生に挨拶をと言われた。Bradford先生はミシガン大学Medical Schoolを首席で卒業された女性医師で、将来を嘱望されている方であった(後に全米初となる米国頭頸部外科学会理事長、米国耳鼻咽喉科・頭頸部外科学会理事長に就任、現在オハイオ州立大学Medical Schoolの学長をされている)。Bradford先生のオフィスに伺い、挨拶をした。Bradford先生はこう言われた。
「Tetsuya頑張ってね。ところで奥さんHarukoっていうのね。あなた耳鼻科医なの?それは良いわね。先日、私のフェローが耳鼻科レジデントに入ってしまって、人を探しているの。あなた研究の経験があるのね。良かった、あなたどう?J2ビザ?そんなものどの様にでもなるから。明日からあなた仕事してね。宜しく。」
妻曰く
「この小さな子が居て。」
「分かっている、私にも小さい子が居るし。Nurseryのお金は私が出すから、じゃあYumiko(長女の名)も、頑張ってね。」
妻の、娘とゆっくり過ごす米国生活の夢はこのようにして消えた。Yumikoは日本人の一人も居ないNurseryに預けられることとなった。その後次女Makikoも誕生、Makikoは生後6週目からNurseryに預けられることとなった。

仕事は頭頸部癌細胞株を使用し、未知の癌抑制遺伝子を探るという壮大なものであった。Carey先生は世界で初めて頭頸部癌の細胞株樹立に成功した研究者であり、100以上のストックがあった。特筆すべきはコントロールとして正常細胞株も多くあり、同一患者癌細胞と正常細胞を綿密に比較検討することで、22の常染色体のどの部分が癌によって欠失欠損するか、いわゆるLOH(Loss of Heterozygosity)解析を行う事が出来た点である。染色体18番長腕のテロメア付近、18q23に重要な欠失部位があることが確認され、私はこの近傍に存在すると予測される新規癌抑制遺伝子の探索を命ぜられた。紆余曲折の後、私は最終的に1つのGPCR(G Protein Coupled Receptor、G蛋白共役型受容体)に着目した。GPCR は7回膜貫通型の受容体で、細胞内第3ループが重要であり、ここにG蛋白が結合しシグナル伝達を開始する。あるGPCR遺伝子が頭頸部癌新規癌抑制遺伝子と推論し、第3ループのDNA配列をNCBIのデータベースから得て、領域のPoint mutationを、その部分すべてを網羅するプライマーを自身でコンピュータを駆使して決定(未知ゆえ市販品は無い)しSSCP法で確認、変異が疑われる部位をPCR法で増幅し塩基配列を同定するという手法で研究を進めた。
やがて夢の中でもGPCRの構造式を見るほどGPCRが大好きとなっていた私は、この分野の世界一が誰かを探った。それはNIHのNIDCR(NIH Dental and Craniofacial Research)にいるDr. Silvio Gutkindであった。Gutkind先生はOral and Pharyngeal Cancer branchのチーフでもあった。私は頭頸部外科医として何かの縁を感じていた。

マネージメント面では米国生活や仕事が自身に合っていたようで、ミシガン大医学生や時にはミシガン州の高校生なども積極的に指導した。米国における耳鼻咽喉科頭頸部外科のマッチングの難しさなどを教えてもらった。ミシガン大耳鼻咽喉科頭頸部外科のレジデント採用は4名だったと記憶している。しかしミシガン大医学生200余名の内、レジデントに入れるのは1名だけであった。それ以外は他大学からであった。必然的にミシガン大学内で競争となる。合格者は、成績優秀は勿論の事、全米Student Awardを取ったとか、volunteerが素晴らしいなど、輝かしいものが並んでいた。
様々なレジデントや他科のスタッフ、基礎研究者などと仕事を深め、大変充実した時期を過ごしていた。そんな矢先、2年目中盤にCarey先生から、このままミシガン大学の正式スタッフAssistant Professorで残って、NIHグラントを獲得し独立してほしい、とのオファーを受けた。「はい」と答えた後、家で妻に話した所、「辞めて」と意見が分かれてしまった。

それ以降Carey先生はTetsuyaが残るからと、やたら機嫌が良い。しかし私は無理、とのことをいつ話すべきか悩んでいた。やや元気がなかったのであろう。
Carey先生は「どうした?」と言葉をかけてきた。
ここで私は初めて、やはり受けることは出来ず、日本へ帰るような内容を言った。初めて、Carey先生は真顔で怒ってきた。
「お前は引き受けると言った。なぜだ?」
「このラボでは今後の展開が見通せない、だから難しい。」
「それならどうしたい?」
私は思わず言っていた。深層心理であろう。
「GPCR研究を進めたく、NIHに行きたい。Gutkind先生が居る。」
数秒考え、Carey先生は言われた。
「Tetsuya,それは良い考えだ。」
それはそうだ、Gutkind先生はNIHグラントの全米研究費配分を決めている。私が行けばNIHとのパイプが強くなる。Carey先生はその場でNIHに電話をし、Gutkind先生と話をされた。NIH訪問が決まった。
12月の寒い日、Carey先生と私の家族全員でNIHを訪れた。私とCarey先生との発表後、真面目な顔をしてGutkind先生が寄ってきた。
「あれ、お前の仕事か?」
「はい、そうです。」
「そうか、明日からお前はNIHだ。直ぐ移って。お前はNIHで仕事をすべきだ。」
結果、2000年の年末に夜逃げのようにAnn Arborから車2台(ミニバンに荷物、趣味の車に子供二人とTV)で移動を試みた。ナビもスマホも無い状況で地図を片手に移動横断した。2日目の夕方、メリーランド州ロックビルが見えた感動は今でも忘れない。

 
NIHにおけるSilvio Gutkind先生との出会い

NIHは巨大な施設であった。ラボには40人ほどの研究者が居た。世界中から集まっており、フランス語やスペイン語、中国語などそれぞれの言葉で賑やかであった。全体会議のときだけ英語となり、英語の必要性を実感した。Gutkind先生はアルゼンチン人であり、明るいが謙虚で熱心であった。私は土日も仕事をしていたが、彼も必ず土日に居た。一番話せるのは日曜であった。
最終的にミシガン大学から繋がる仕事は2001年ニューオーリンズでの米国癌学会年次総会(AACR:American Association for Cancer Research Annual Meeting)でYoung Investigator Awardを受賞した。セレモニーの中で大会長のメンフィス大学の先生からの祝辞が忘れられない。
「君たちはこれから世の中の大きなグラントを貰って研究をしていくことになる。しかし、其の研究は必ず臨床に還元できるものでなければならない。」
私は今でも、この言葉を大切にして研究を続けている。
Gutkind先生とは今でも懇意で、家族ぐるみの付き合いである。現在、UCSDに移られ腫瘍免疫の世界的大家となっている。京都大学本庶佑先生と共同研究をされているとの事である。

 
愛知県がんセンターにおける恩返し:Carey先生、Carol Bradford先生を招請

2001年縁あって岐阜大学に戻り、2002年から愛知県がんセンター頭頸部外科医長に就任した。臨床業務に邁進するとともに、科学研究費補助金を獲得し研究を進めた。月曜から金曜日まで毎日手術、12時間を超える再建手術等とともに自身で麻酔管理、術後ICU管理、全身管理などを行い、充実した臨床医生活を送った。スタッフとして日本各地から研修に来るレジデントの指導に当たることになり、手術など臨床指導だけでなく、基礎研究を行うことの大切さも伝えた。教育とは恩返しとも言われる。受け継いだものを次へ絆ぐべく、大切な時間を共に過ごした。
米国に育てて貰った私の、米国側への恩返しも叶った。愛知県がんセンターの研究会で外国研究者の招請があり、Bradford先生、Carey先生を呼ぶことが出来た。これまで私は米国から主にTakeをして来た。しかし漸くこの様に恩をGiveさせて頂くことが出来る様になった。交流とは交わり流れると書く。Bradford先生、Carey先生とは今でも家族ぐるみの付き合いをさせて頂いており、その大切さを実感している。
意外な所で、名古屋大学の伴信太郎先生と知己を頂く事となった。
私がミシガン大学で教えていたErinという女子学生が居た。彼女は名古屋大学との交換留学で伴先生の所に来たらしい。ある時、伴先生から愛知県がんセンターの私に直接お電話があった。
「小川先生ですか?はじめまして、伴です。Erinというミシガン医学生は居ませんか?」
Erinはどうも勝手に何処かに行ってしまったらしい。後から分かることだが彼女は神戸の友人のところに行っていた。Erinは伴先生に、愛知がんのOGAWAと知り合いだと、話していたらしい。
「伴先生、はじめまして小川です。Erinは居ません。今後とも宜しくお願い申し上げます。」
伴先生は言われた。
「先生とはまた会うことになると思いますよ。」
事実その後私が愛知医科大学に移り、伴先生も愛知医科大学に来られ、直接の御指導を頂いている。人と人の繋がりは本当に不思議なものである。ちなみにErinはミシガン大学レジデントを経て耳鼻咽喉科・頭頸部外科スタッフとなり、現在では内視鏡的頭蓋底手術の世界的権威となって活躍している。

 
愛知医科大学での出会い: NYのMSKCC、ドイツUlm大学臨床見学、上田龍三先生との出会い

2007年から縁あって、愛知医科大学に移ることとなった。愛知医科大学は頭頸部外科手術がほとんど無く、いわゆるゼロからの立ち上げであった。基礎面では分子腫瘍学から腫瘍免疫学を中心とした研究を進めていった。
医育機関での仕事は遣り甲斐も大きく、米国留学の事を若い方々へ伝え、さらに卒後臨床研修センター副センター長などを拝命した。大変充実したものとなっている。医学教育に関しても伴先生の直接の薫陶を頂くこととなり、現在でも多くの学を頂いている。臨床面では愛知県がんセンターの成果を活かし、難易度の高い手術や収益性をも考慮した手術などを開発し、また新しい甲状腺を用いた再建術などを考案、出版している。
海外交流では時間を見て、世界一と言われるNYのMSKCCの頭頸部外科Dr. Shah先生を訪ね、最前線の臨床を学んだ。また予てからの友人であるドイツUlm大学耳鼻咽喉科・頭頸部外科のHoffmann教授を訪ね、実際に手術に入りそして外来を診て、日本の医学が如何にドイツから来ているのかを実感した。現在でも両先生には公私とも大変お世話になっている。
基礎の仕事は、頭頸部癌への免疫チェックポイント阻害剤の導入とともに腫瘍免疫学に移行している。今考えてみるとミシガン大学のLabはTumor immunologyであり、また高橋利忠先生、Carey先生もMSKCCの世界的免疫学の祖Old博士の直系であった。実は運命のように腫瘍免疫学と関係していたと思う。
そして現在では、愛知医科大学に腫瘍免疫学寄附講座で来られた上田龍三先生と仕事をさせて頂いている。上田先生もやはり1970年代にMSKCCで腫瘍免疫の仕事をされ、ATLでモガムリズマブを上市した偉大な先生である。上田先生のAMED導入免疫療法に頭頸部癌で参加させて頂き、愛知医科大学での大きな仕事となっている。そして自身、動注免疫治療法を開発し特許発明申請(特願2022-210977)を行い、厚生労働省先進医療B先行研究(jRCTs041220157)を実施している。さらに新しい動注免疫治療法の開発をAMED医師主導治験として進めていくべく、楽天メディカル社三木谷浩史さんとも面談、現在国立がん研究センター中央病院の先生方と共に進めている。

 
国内学会、米国学会への恩返し:日本頭頸部外科学会国際委員長就任とAHNS正会員就任、米国国際委員会委員への就任

日本頭頸部外科学会理事長から、今回新たに国際委員会を発足させるのでその初代委員長に就任して欲しい、との打診を受けた。これまでの経験を活かしたいと考え、若手留学経験4名の先生を指名し、国際委員会を運営し世界訪問やWeb会議などを行っている。
また米国やアジア側から、日本人の米国頭頸部外科学会正会員が居ないことから、私の応募を要求された。会に入ることは大変難しいとされる。米国での経歴や現在の状況、臨床内容その他膨大な資料と共に、推薦状2名の指名が必要であった。これは学会側から独立して推薦人へ連絡が入り、別個に推薦状が書かれ学会へ提出、入会が審議されるというものであり、半年以上の審議が掛かったと思う。忘れた頃にAHNSメンバー就任のメールが来て、2023年8月AHNSモントリオールの総会で紹介セレモニー、入会となった。さらにAHNS内のInternational Advisory Serviceに入ることとなり、現在Web世界会議に参加し、米国中心の頭頸部外科学の運営決定の流れを直に感じ取ることが出来ており、大変貴重な経験となっている。

 
おわりに

振り返るとこうなった25年だが、何かが少しでもずれていたらこうはならなかった25年であったと思う。私の次の25年はどうなって行くのだろうか。新しい自分、より良い自分を模索し生きていきたい。JANAMEFには次の日本医学を背負う多くの先生が寄り添って居る。私も日本医学発展のため、日本という国を背負う気持ちでJANAMEFと共に世界に向かって行きたいと考えている。

 


執筆:小川 徹也
メールアドレス:ogawate@aichi-med-u.ac.jp