第5回 "Dictationについて"


英語では、正式な文書は口述する場合が多いです。政府や役所が発表する文書や、軍隊での命令書、そして医師が作る文書もコンピュータやタイプライターではなく、口頭で文章を述べ、それをテープに録音してタイピストがタイプするのです。この作業をDictationといいます。きちっとした文面をいきなり頭で考えて訂正なく述べるのは、日本人には馴染みがないかもしれません。しかし、英語圏だけでなく、欧米では普通に行われている習慣です。先日、ドイツ映画でヒトラー最期の12日間を描いた"Down Fall"という映画で、ヒトラーが秘書を採用するのに、口述をタイプさせてその能力を見る場面がでていまして、アメリカと全く同じだと感心しました。

医師がDictationする文書は、入院の際の診断書、H&P(History and Physical)や退院報告書(Discharge Summary)、手術やProcedureをした際のSurgical Report、X線写真などのX-ray Report、病理報告書(Pathology Report)など、多数あります。これらの文書はタイプで書かれる事はまずありません。すべてDictationで書かれています。つまり、アメリカで医師をするためには、完璧な英文を書ける能力だけではだめで、それを空で言えないといけないのです。

私が初めてアメリカの医師がDictationをしているのを見たのはロサンゼルスの研修病院で内視鏡に立ち会った時でした。内視鏡で上部消化管を見せてもらって指導医と同じものを見たつもりだったのですが、まさかその見たことを経時的に詳細に報告書に書く必要があるとは思ってもいませんでした。指導医は内視鏡が終わるとさっさと電話でDictationの回線にはいり、録音状態にして、深呼吸を一つしてから、ものすごいスピードで今見た所見を詳細に口述したのです。普通に英文を口頭で言えるだけでもすごいのに、なんと早回し3倍速ぐらいで英文を口述します。私はすっかり驚いてしまいました。数ページにもわたる報告書があっという間に終わってしまう、なるほど、どおりでDictationという習慣がアメリカでなくならないわけです。

そうこうしているうちに、私もDictationをしなければいけなくなりました。入退院の文書を作るのはInternの仕事だからです。全ての自分が関わる仕事のDictationをこなさなければなりません。しかし、どんなに逆立ちしても指導医のようなDictationはできません。しかたがないから私は紙に全て書いて、それを読み上げて録音する事にしたのです。それでも、緊張して上手に録音できず、あーとかうーとか言いながらぽつりぽつりと録音したのです。緊張で声は震え、額からは汗が滴り落ちました。ところが翌日にはタイプされた文書が届きましたが、みごとな英文に仕上がっているのです。私が間違って遣った言い回しまで直されていて、こなれた完璧な英文の報告書になっておりました。タイピストが言わんとしている事を理解し、上手にタイプしてくれました。あまりの上手さにどんな人がタイプをしてくれたのだろうかと、顔を見に行きました。きっと白人の女性が直してくれたんだろうと予想していたのですが、なんとタイプをしてくれていたのはベトナム難民の方で英語を母国語としていない女性でした。ここに移民の国アメリカの真骨頂があります。仕事が出来るなら出身出自を問わないのです。また、私のようなへっぽこ新米医師でもちゃんとアメリカの医師として暖かく迎え入れてくれるのです。

アメリカの臨床研修ではDictationをしなければならないと聞いて心配される方もいるかもしれません。しかし、心配ご無用。アメリカ人でも最初はできません。臨床研修では入退院や手技でたくさんのDictationをしていきます。最初は緊張しても、100回をこすと、要領がつかめてきます。まして1,000回を超えるといままでDictationをやった蓄積みたいなものが溜まっており、随分上手になります。臨床研修3年目は外来を担当して、すべてのカルテはDictationで書かなければなりませんでした。研修医が手でカルテを書くと汚い字で誰も読めないからDictationが義務化されたのですが、お陰で診察をした後、今の所見と考察をDictationするため、英文は自動的に頭に浮かんでくるようになりました。一見難しそうな事でも、何事も慣れの問題です。確かに英文が自動的に頭に浮かんでくるようになると、Dictationの方がタイプするより遥かに早く便利です。

Dictationをしようと思ったらある程度の英語の基礎がないといけません。そして英語の勉強の先にはDictationみたいな能力の開発が待っているわけです。

ジャナメフ【2016年10月24日】


著者プロフィール
小林 恵一(こばやし・けいいち)
1980東京大学文学部西洋史学科卒業、1988年神戸大学医学部卒業。1990年~1993年南カリフォルニア大学ハンティントン記念病院内科レジデント、ハワイ大学内科レジデント。東京八王子東京天使病院内科部長、御代田中央記念病院副院長を経て、1997年米国ハワイ州ホノルルにて開業。2014年より財団評議員。